みんなと違う私
私自身が他の人達と違う所。
まず、小さい頃は勉強が出来なかった。
有り得ない位成績も悪く、運動も駄目だった。
駆けっこはいつもビリでマラソン大会などは最後尾を走っている人達が見えなくなるぐらい遅れていた。
当然鉄棒や跳び箱も、縄跳びも駄目(x_x)
あと、時々だが人の話が分からなくなることがあった。普通に話をしていも、英語で話をしているの?って思う位に相手の言葉が理解出来なかった。
忘れ物も多かった。
大人になると仕事での失敗やコミュニケーションの問題が多かった。
思うようにコミュニケーションとれなくて最後には「自分は自分」と割り切って考えるようにした。
そして周りの人に対して自分のできる限りのことをしようと、相手の愚痴を聞いたりできる限りのことをしてみた。
でも、結局自分自身が疲れてしまい、仕事も人間関係も長続きしなかった。
私には夢があった。お金を稼いで贅沢は出来なくても普通に生活をして出来れば家を買って両親に楽な生活をさせたいと当時は思っていた。
その為に仕事の合間にバイトをしようとしたが、じかんの配分が出来ずにバイトと仕事両立が出来ず、更には体調も崩しやすくなってしまっていたために諦めるしかなかった。
資格を取りたくても、勉強と仕事の両立が出来ず、本当に情けなかった。
当時は自分が何の障害もない健常者だと思っていたので、自殺を考えてしまう程情けなかった(ノД`)
就職してから2
通信制の高校を卒業と同時に私は会社をやめた。
そして印刷会社に就職したがとりあえず簡単な作業を何とかこなし、頑張ってみた。
一人暮らしをしていたので、とりあえずは充実した日々を送れたと思う。
寮生活をしていた時は24時間常に部屋に誰かがいて心休まることがなかった。
一人だと自由にテレビを観たり、横になりながら漫画や雑誌を見たり、気ままに出来た。
部屋で誰にも観られず邪魔されず、陰口叩かれずにのんびりボ-ッと出来る幸せを噛み締めることができた。
でも仕事ではやはり失敗が多かった。
印刷会社なので、インクを何グラム用意するように言われて用意すると全然違っていたり、種類を間違えたりした。
他の人がきちんと確認してくれていたので、大事にはならなかったが、本当に迷惑を賭まくりだった。
でも、職場の人達は私を責めることはせずにフォローをしてくれていた。
私もなるべく失敗しないように、同じ失敗は二度としないようにしようと決めた。
そして一度やった失敗はしないように頑張った。
気づくと違う失敗をしていた(T^T)
駄目だな、私•••。゚(゚´Д`゚)゚。
こんな駄目な奴のフォローをしてくれていた職場の人達には本当に感謝m(_ _)m
就職してから
中学を卒業するとすぐに就職した。就職した会社は通信制の高校生に行かせてくれた。
学校自体はとにかく授業に出ていれば卒業出来るような高校だったので成績の悪い私にとってはとても助かった(^0^;)
仕事は単純作業はすぐに覚えることができたけど、ちょっとでも複雑になってくると、人の足を引っ張りそうなぐらい、駄目だった。
当然周りは冷ややかで、寮生活も5、6人部屋でプライバシーもなかったので本当に辛かった。
親には「家には途中で逃げ出す落ちこぼれはいないからな」そう言われていたので当然家に逃げ帰ることが出来なかった。
後から入る後輩からも私は下に見られていた。
高校卒業する年になると寮の部屋の中をまとめるリ-ダ-さんをやらされるが、私は出来ないだろうからと後輩がその役をやることになった。
正直私自身もすごく悔しいし、辛かった。
でも、その中でも同級生が「あなたは後輩にちゃんと注意もしているし、リ-ダ-が出来ないはずはないのに絶対おかしいよね?」そう言ってくれた。
私のことをちゃんと見ていてくれたんだって本当に嬉しかった。
本当に心から感謝した。
小さい頃の私2
小さい頃の成績はかなり悪かった。みんな学校の授業で習ったことを次々と覚えていく。
私は何故みんな学校勉強が出来るのか?授業で習ったことを次々覚えられるのか不思議で仕方なかった。
なにをやっても駄目で、みんなから冷ややかな目で見られていた。
勉強も絵も体育も音楽も、有り得ない位駄目だった。
なんでみんな出来るの?なんで授業を理解出来るの?なんで跳び箱や鉄棒できるの?なんで駆けっこはやいの?縦笛みんなふけるの?なんで?
常にそう思っていた。
小さい頃の私
小さい頃の私はおとなしい子供だったらしい。あまり自己主張しなかったと思う。
近所の子と遊んでいた記憶はあるが、自分から友達の輪に入って行ったり、自分から進んで遊んだりすることはなかったと思う。
幼稚園や小学校では友達がいた記憶がほとんどない。
原因は友達とどのように接していいのか?遊んでいいのかわからなかったからだと思う。
実際記憶では、どうしていいか悩んでいる記憶しかない。
大人になった今でもどういうふうに人と接すればいいのかわからないでいる。
なので、私にはずっと友達と呼べる人がいなかった。その場かぎりになってしまっていた。
今は唯一1人だけ、私のことを気にかけてくれている人がいる。
その人は私が知的障害だったことを知っても変わらずに気にかけてくれている。
その人には本当に感謝m(_ _)m
思うように出来ない生活
私自身の生活は有り得ない位ボロボロだった。
まだ子供が1人の時は旦那の協力も得ながらだけど何とかなった。
しかし、2人目が生まれるとあっと言う間に家事が回らなくなった。
元々2つのことを同時にするのが苦手だったが、まだ赤ちゃんで手の掛かる下の子をあやしながら料理や掃除など尚更出来なくなっていった。
そんな状態だったので、私に発達障害の疑いが出たとき真っ先に旦那が病院探しに動いた。
子供が検査を受けた病院は予約が半年以上待ちだったので、もっと早くみてもらえる病院を探すこととなった。
ADHDだと私も旦那も思っていたので、流石に知的障害の診断には驚いた(・_・;)
文句を言いながらも離婚しないで私を支えてくれようとしている旦那には頭が上がらない。
本当にありがとうm(_ _)m