40代軽度知的障害者のつぶやきブログ

このブログは自分だけのブログとして始めましたが、公開することで少しでも同じような方の役に立てればと恥を覚悟で公開することにしました。このブログが同じような障害をもつ人の何らかの役に立ちますように。

就職してから2

f:id:SAKItan:20170131203110j:plain


通信制の高校を卒業と同時に私は会社をやめた。



そして印刷会社に就職したがとりあえず簡単な作業を何とかこなし、頑張ってみた。




一人暮らしをしていたので、とりあえずは充実した日々を送れたと思う。




寮生活をしていた時は24時間常に部屋に誰かがいて心休まることがなかった。




一人だと自由にテレビを観たり、横になりながら漫画や雑誌を見たり、気ままに出来た。




部屋で誰にも観られず邪魔されず、陰口叩かれずにのんびりボ-ッと出来る幸せを噛み締めることができた。



でも仕事ではやはり失敗が多かった。




印刷会社なので、インクを何グラム用意するように言われて用意すると全然違っていたり、種類を間違えたりした。




他の人がきちんと確認してくれていたので、大事にはならなかったが、本当に迷惑を賭まくりだった。



でも、職場の人達は私を責めることはせずにフォローをしてくれていた。




私もなるべく失敗しないように、同じ失敗は二度としないようにしようと決めた。



そして一度やった失敗はしないように頑張った。



気づくと違う失敗をしていた(T^T)



駄目だな、私•••。゚(゚´Д`゚)゚。




こんな駄目な奴のフォローをしてくれていた職場の人達には本当に感謝m(_ _)m

就職してから


f:id:SAKItan:20170129222616j:plain

中学を卒業するとすぐに就職した。就職した会社は通信制の高校生に行かせてくれた。




学校自体はとにかく授業に出ていれば卒業出来るような高校だったので成績の悪い私にとってはとても助かった(^0^;)




仕事は単純作業はすぐに覚えることができたけど、ちょっとでも複雑になってくると、人の足を引っ張りそうなぐらい、駄目だった。




当然周りは冷ややかで、寮生活も5、6人部屋でプライバシーもなかったので本当に辛かった。




親には「家には途中で逃げ出す落ちこぼれはいないからな」そう言われていたので当然家に逃げ帰ることが出来なかった。




後から入る後輩からも私は下に見られていた。




高校卒業する年になると寮の部屋の中をまとめるリ-ダ-さんをやらされるが、私は出来ないだろうからと後輩がその役をやることになった。





正直私自身もすごく悔しいし、辛かった。




でも、その中でも同級生が「あなたは後輩にちゃんと注意もしているし、リ-ダ-が出来ないはずはないのに絶対おかしいよね?」そう言ってくれた。




私のことをちゃんと見ていてくれたんだって本当に嬉しかった。



本当に心から感謝した。

小さい頃の私3


f:id:SAKItan:20170129215802j:plain

とにかく何をしても駄目だった私はよくいじめられていた。



悪口を言われたり避けられたり、物をかくされたり挙げ句には盗難の濡れ衣を着せられたりもした。




学校生活はそういうことが当たり前になっていた。 




そんな私に親や兄弟はどう思っていたか?今となっては思い出すことが出来ないでいる。



楽しかった思い出もあるはずなのに、何故か思い出せずにいる。



親兄弟も恐らくは「なんでこの子はこんなに出来ないのか?」そう思っていたと思う。



小さい頃のいじめられた事は覚えているけど、それ以外のことはあまり思い出せずにいる。



それだけいじめや劣等感がわたしにとってインパクトが強いことだったのかも知れない

小さい頃の私2


f:id:SAKItan:20170128205945j:plain

小さい頃の成績はかなり悪かった。みんな学校の授業で習ったことを次々と覚えていく。




私は何故みんな学校勉強が出来るのか?授業で習ったことを次々覚えられるのか不思議で仕方なかった。




なにをやっても駄目で、みんなから冷ややかな目で見られていた。



勉強も絵も体育も音楽も、有り得ない位駄目だった。



なんでみんな出来るの?なんで授業を理解出来るの?なんで跳び箱や鉄棒できるの?なんで駆けっこはやいの?縦笛みんなふけるの?なんで?



常にそう思っていた。

小さい頃の私


f:id:SAKItan:20170128202318j:plain

小さい頃の私はおとなしい子供だったらしい。あまり自己主張しなかったと思う。



近所の子と遊んでいた記憶はあるが、自分から友達の輪に入って行ったり、自分から進んで遊んだりすることはなかったと思う。




幼稚園や小学校では友達がいた記憶がほとんどない。




原因は友達とどのように接していいのか?遊んでいいのかわからなかったからだと思う。




実際記憶では、どうしていいか悩んでいる記憶しかない。




大人になった今でもどういうふうに人と接すればいいのかわからないでいる。




なので、私にはずっと友達と呼べる人がいなかった。その場かぎりになってしまっていた。





今は唯一1人だけ、私のことを気にかけてくれている人がいる。




その人は私が知的障害だったことを知っても変わらずに気にかけてくれている。



その人には本当に感謝m(_ _)m

思うように出来ない生活


f:id:SAKItan:20170127214907j:plain

私自身の生活は有り得ない位ボロボロだった。



まだ子供が1人の時は旦那の協力も得ながらだけど何とかなった。



しかし、2人目が生まれるとあっと言う間に家事が回らなくなった。


元々2つのことを同時にするのが苦手だったが、まだ赤ちゃんで手の掛かる下の子をあやしながら料理や掃除など尚更出来なくなっていった。



そんな状態だったので、私に発達障害の疑いが出たとき真っ先に旦那が病院探しに動いた。



子供が検査を受けた病院は予約が半年以上待ちだったので、もっと早くみてもらえる病院を探すこととなった。




ADHDだと私も旦那も思っていたので、流石に知的障害の診断には驚いた(・_・;)



文句を言いながらも離婚しないで私を支えてくれようとしている旦那には頭が上がらない。



本当にありがとうm(_ _)m
 

心の修羅場


f:id:SAKItan:20170127205143j:plain

検査結果が出てからしばらくは現実を受け止めることが出来ず、「なんで?どうして?」が頭の中を支配していた。



絶縁した親は何故気づかなかった?もし知っていたら少なくとも結婚も出産も諦めていたと思う。




上の子に自分と同じ苦しみを将来背負わせてしまったのではと心が痛い(ノД`)



上の子は自閉症で知能も遅れている。



今までは迷惑かけまくりで親に対しては申し訳ない気持ちばかりだったが今は、どうして気づかなかったの?そういう思いがとても強い。



だけど子供達と一緒にいると、「もし一人っきりの人生を選択していたらこの子達とは会えなかったんだよなぁ」と、思うとやはり複雑な気持ちになる。



子供達に関する事については国や市の制度などを利用出来ることはとにかく利用して、子供達が将来出来る限り自分達の力で生きていけるようにしていけたらと思う。



せめて子供達は幸せになって欲しい。自分の力で幸せを掴んでいって欲しい。そう思うから•••